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神の愛と赦し(渥美充代)

私は小さい頃から何不自由なく育ててもらいながらも、両親の愛というものをわからずに生きてきました。 父と母は私のことで毎日のように喧嘩をし、母はその後で私にあたりました。


いつからか私は「私がいるから父と母は喧嘩するのではないか、私さえいなければいいのでは」と考えるように なりました。そして「何をやってもだめな子だ」と母が私を見るように、私も自分自身のことを母と同じように見るよ うになっていき、私のセルフイメージは著しく低下していきました。なんとかして早くこの家から出たいと思うように なり、念願が叶い、大学入学と共に東京へ出ました。母から離れられた解放感は全ての解決であるかのように 思えました。


東京に出てひとりで暮らすようになりましたが、何をしても全く満たされない思いは続きました。そんなある日、大 学の同級生に道でばったり会いました。学生時代は彼女がクリスチャンであると知っていたのであまり彼女に深 入りしないようにと警戒心を持っていました。しかし卒業して一年、なぜか久しぶりに会った彼女と話したくなり彼 女の家に寄ることにしました。音楽大学での勉強を通して「キリスト教」はいつも身近にあるひとつの学問だった ので教養としての興味は持っていたし、カトリック教会の聖書研究会などに参加したこともあった私は、彼女に神 様の話をされると知っているみことばを得意げに話しました。すると彼女は自分と神様との関係のことを「神様と もっとストレート」だと言いました。「神様ともっとストレート」それはどういうことだろう。神様とストレート…。その彼 女の言葉は消えることなく私に残りました。その後私たちは大学時代よりももっと友達になっていきました。大切 な友達が話す神様のことをもっと知りたい。私もその神様を信じたい。会うたびにそう思うようになっていき、友達 の祈りに導かれて、私はイエスキリストこそ自分の救い主だと信仰告白をしました。


次の日曜日、友達の通っていた教会に初めて行くと、礼拝に参加している人たちが賛美をしていました。教会の 白い壁には賛美の歌詞が映し出され、ひとつのことばが何回も繰り返されていました。

「あなたは愛されている」

初めて行った礼拝で賛美歌が流れる中、わけも分からず、こらえ切れず号泣しました。

その涙と共に私は自分がこんなにも愛されたいと強く思っていたことを知りました。

神様がこの私を愛してくださっている。その時の私にとってこんなに大きなプレゼントはありませんでした。


愛がわからなかった私が、神様の愛を知り、両親の私への愛を理解できるようになっていきました。礼拝で「父よ、 彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。」(ルカ 23:34)という十字架 上のイエスの言葉を聞いた時、自分ばかりが傷ついていると、被害者だと訴えるような、傲慢で自分勝手な私こ そが、主を十字架に架けたのだと胸を突き刺されるような思いがしました。

それから難しかった母との関係の間にも一本の主の十字架が立つようになりました。

イエス・キリストは私のためにも、母のためにも十字架に架かられたのです。

そして、十字架で死んでしまっただけではなく、よみがえられ、今も生きておられます。

生きておられる主が共にいてくださることによって両親との関係の回復も始まっていきました。


神様の愛は人を変えます。

私をここまで導き、愛し、赦してくださった神様に心より感謝しています。

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