神の絶妙なる愛を知る(竹内章博)

私は、20 代までは日本で普通に働き生活を送ってきましたが、人生の舵を海外に向け、一時期僻地を回る時期もありましたが、行き着いてドイツに渡ってきました。


2年少し経過したころでした。当時勤めていた会社の経営が傾き、職場では強権的な経営者からの圧力と保身に走る同僚たちの背信などで、私は四面楚歌の窮地にありました。ちょうどその頃かつて同僚だったクリスチャンの薦めで、自宅でその方の所属する教会のウェブ礼拝の説教を聴いていました。厳しい重圧と猜疑心で沈む私にとっては、与えられている御言葉の一つ一つが、自分への慰めのように実に心に沁みこんてゆきました。


「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。」詩篇23編 4 節


この聖書の御言葉は暗闇の中の希望の光でした。ここにこそ、閉塞状態からの解放と、偽りのない真理があるのではないかと期待から洗礼を決心しました。


今振り返ると、その時の追い込まれた境遇が受洗の決意を押ししただけで、衝動的に藁をつかみ、自分の罪と向き合うこともなく、いったい私は何にどのように救われたのか、ほとんど分からないままでした。その後、転職と転居があり、これまでのパソコンのビデオ礼拝から、実際に人々が物理的に集う教会に導かれ、新しい教会生活が始まります。しかし次第に最初の信仰熱も冷め、喜びが薄らぎ、青年期から続く虚しさが膨らんで、聖書のみ言葉も律法主義的に受け取り、行い重視だけど中身は中途半端な、十字架という土台のない「自称クリスチャン」的生き方を続けていました。


今から遡るところ 6年前、1年間に渡って同時期に大きな試練が続きました。所属教会内では、群れを揺るがされる危機に直面し、しばらく心にしこりを残して教会生活をおくります。一方仕事上では、私の担当案件が大事故を起こし、問題がこじれ弁護士をたてて解決するまでおおごと大事になり、結果的に会社に高額の損害を与えてしまいます。さらに別の取引先が倒産し、債権回収処理に奔走するといったように艱難辛苦が襲い掛かるように畳みかけました。実際夜中に何度も目が覚める睡眠障害が半年以上続き、闇と迷い・失意で深淵をさまよっていました。


それは、いつだかは思い出せません。ヨハネ 13 章のイエス様がご自身の手で弟子たちの足を洗うシーンに触れたとき、私の心の内側で震えるような悲しさだけでなく、同時に張り裂けるほどの喜びが湧き起こりました。私はなぜ、自分の罪に真摯に向き合おうとせず、イエスの十字架を他人事のようにしているのか。いつも後ろ向きで裁きを恐れて縮こまっているのだろうか。イエス様から遠ざかって、虚しさの中に籠っているのか。なぜ神を信頼せず、誤った自己解決によって苦しみに迷い込もうとするのか。委ねられた使命に忠実に仕えているのか。罪がほとばしるように目の前に表れてきました。イエスは一度、ゴルゴダの丘の十字架で罪を贖ってくださいました。でも、先のイエス様が足を洗うシーンを思い起こせば、弟子たちだけでなく、洗っていただくのは、洗礼を受けて後も罪に汚れている私の足です。へりくだって主の前に足を差し出し、自らの罪を告白して洗い浄めていただきたいと願う心が沸き上がったとき、実は私は自分がこのイエスキリストによって、神から罪赦されて生かされているのだとはっきり目が開かれました。


キリストに出会った、このときこそ、本当の救いがあることを強く確認しました。その後の試練に遭遇したときは、祈りで神に自分の希望と願いを尋ね求めるだけでなく、自分自身の罪をも同時に見つめ直して告白するように心掛けています。もちろんメンタル的に強いわけでないので、心はざわついたり、揺らされることはあります。でも、試練そのものの成り行きはどうあれ、神からの圧倒的な赦しをいただいていることを認識し、そして試練を通して神への信頼が以前より強められていきます。また教会においても、家庭生活においても、謙遜であわれみ深い足を洗うイエスのように、神にも人にも仕える者となるようにと意識するようにもなりました。弱い私を、私に最もふさわしい手段をもって、鍛え育ててくださり、何をも益としてくださる、恵みとあわれみに満ちる神に感謝します。

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