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救いの証

私がイエス様、神様こそが真の救い主であると信じたのは16歳の高校一年生の冬になります。改めて振り返ると私は今のいままで本当に神様に守られ愛され生きてきた人生だなと思っています。


私の家は両親、兄弟がクリスチャンというわけでもなく、私だけが家族の中でイエス様を信じている身になります。そんな私が教会にいきはじめたのは小学生の頃からで、近所の教会のクリスマス会がきっかけでした。教会は友達がいるから、みんな優しいからという漠然とした理由でまともに話をきくわけでもなくただ教会に通っていました。


中学2.3年生ごろにユースで賛美バンド活動を始めるようになってから、自分にとっての教会というものが変わりはじめました。学校は学校で楽しく生活をしていたのですが、思春期という事もあり、対人関係に悩んでいました。私は昔から人間関係を損得勘定でみる癖があり、だからこそありのまま、素の自分では受け入れられるはずがないと思い込んでおり、いつも人に対して顔色を窺い、変に気を遣っていました。クラスの中でヒエラルキーを勝手な主観で創造し、自分がどの立場にいるのか常に考え行動していました。自分とは違う考え方の人を受け入れず、自分の考え方と合う人や一緒にいて得がある人と行動を取るようにしていました。嫌いな人や苦手な人と接する機会をできるだけ減らし、避けていました。しかし教会ではありのままの自分が認められているように感じ、自分の居場所のように思っていました。うまく言葉にできませんが教会独特の暖かさ、居心地の良さを感じていました。教会には学校のような順位付けが感じられず、教会に行くとみんながいつも笑顔で出迎えてくれたことが印象的で私も自然と笑顔になれました。


高校1年生の夏に、その年の冬からドイツに1年間の留学をすることが決まりました。初めて、育った地元を離れるという事を考えたときに、私はドイツにいっても教会にいくだろうとクリスチャンでもないにも関わらず漠然と思ったのです。なぜ私はそう思ったのだろうと自分でも不思議に思い、そこから神様・イエス様について真剣に考えたいと思い、通っていた地元の教会にて学びを受け始めました。教会=神様がつくったもの、神様を信じている人たちが集まっている場所という認識だった私はまず神様・イエス様がどういった人なのかを改めて教会学校の先生から教えてもらいました。それまでは聖書はどこかただの物語のような、教えをうけても他人事のような気がしていたのです。しかしこの学びを通して神様=イエス様という事に気づき、16歳の私はそりゃイエス様が神様ならいくらでも奇跡を起こせるなと衝撃を受けました。神様が私のためにいつも働いて下さっているという信仰はあったので、知識として知っていたイエス様の数々の言動が私にも関係がある事だったのだと心から思えました。正直な所、この時点では十字架や罪というものがよくわかっていなかったと思います。ただ純粋に神様が好きで、私も神様から愛されていると感じ、一生ついていきたい、もっと聖書のことを知りたいという気持ちでした。


私が地元を離れても教会にいきたいと思った答えとして、先ほど述べた私が感じていた教会の独特の暖かさというのが理由の根底にあったと思います。人が作り出した空間ではなく、神様が作り出した空間というのはどこにいってもたとえ国を超えたとしても共通したものがあります。


学びの中で受洗を受ける事は神様と結婚するようなものだと教えを受けました。全部を知って結婚する人はいないけれどもこの人の手をとって一生一緒にいきていきたいと思うかが大切といわれ、私はこの言葉をきいて受洗する決意をしました。


このようにしてイエス様、神様こそが真の救い主であると信じた私は神様の力によって変えられ、人の目を気にしていた私が神様の目を気にするようになりました。そうすると段々自分がどれだけ愛のない、つまり思いやりのない行動をとっていたか気づかされました。


アダムとエバが食べてはならない木の実を食べて以降、人間と神様では大きな隔たりが生まれ、私たちは罪の道を歩んできました。唯一の神様と繋がれる手段として神様はイエス様をこの地球上に送ってくださり、そしてそのイエス様が私の罪のために十字架にかかって下さったという深い愛を知り、ありのままの自分というものを受け入れられるようになり、他人に対しての見る目も変わりました。自分はどれだけ他人に対し冷たい態度をとってきたのだろうと罪に気づかされました。私は一目を気にして生きてきたので、一般的に言われる盗みなどの罪は犯したことがなく自分は良い人だと思っていきていました。しかし聖書の語る罪は違います。神様の意思や目的に対して的外れな行動をしている事が罪になるという事を知ったとき私はいくつもの罪を犯してきたのだろうと気づかされました。神様を信じたあとは例え苦手な人ができても、この人のために祈ろう、この人を愛せるように祈ろうと思えるようになりました。聖書にはあなたは高価で尊いという言葉があります。神様が一人一人にそう思っているのだから私もそう思って人に接しようと思えるようになりました。損得勘定で動き、いつも人の目を気にして行動していた私から神様は解放してくださいました。自分がどうしたいかではなく、イエス様だったらこの時どうするだろうかと考えるようになりました。困難や先が真っ暗になった時決して一人ではないと心強さも感じます。全てを変えて下さった神様に心から感謝しています。

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