救いの証し(まあみ)
私は群馬県高崎市で、特に決まった宗教を持たない、サラリーマン家庭で、三姉妹の長女として生まれました。3人とも小さい頃から、色んな習い事に挑戦させてもらいましたが、私はどれも長続きしなかった中で、小学生の時に始めた水泳だけは、その後大学まで続ける事になりました。小学生・中学生は競泳の選手として、中学生から大学生まではシンクロの選手として、スイミングへ通い続けました。その中で高校三年生の時、大学受験を控え、いったん水泳を止めたところ、10kg程太りました。それが嫌で初めてダイエットを始めたら、どんどん食事が取れなくなる拒食症、その後は食べるのが止められなくなる過食症になりました。無事群馬の大学に入学しましたが、心も身体も不安定な毎日を過ごしていました。その頃中学か高校の英語の教師になりたいという目標が出来、教職課程を取得するため、違う大学の英文科を受験し、3年次に京都の大学へ三年編入しました。親元に居た群馬を離れ、京都へ引っ越しし、新しいスタートを夢見ていましたが、一人暮らしになったら、私の過食症はますます酷くなりました。一年後には登校拒否、一人暮ら
心に灯ったいのちの火(深井愛記音)
私は音楽家の家庭に生まれました。両親はクリスチャンというわけではありませんでしたが、キリスト教会付属の幼稚園に通ったことで聖書の神さまについて知り、小学校卒業まで教会学校にも通いました。しかし成長するにつれて、次第に神さまの存在を忘れて行きました。 幼少期から生きる意味や自分自身の価値について悩んでいた私は、人生に対する不満と諦めを募らせていきました。なんとなく続けていたリコーダーで東京の音大に進学してからは親元を離れ、学生生活を謳歌していましたが、人生に対する虚しさやこれらの悩みは心の中に巣喰い、それに苦しめられていました。 ある日、クリスチャンの同級生にこの苦しみを打ち明けたことをきっかけに、神さまを求めはじめました。しかし、私は自己中心的にしか神さまを捉えられず、自分を変えようともがくうちに状況は悪化して行きました。その後大学院に進み、紆余曲折を経て、当初全く計画していなかったバーゼル音楽院への留学の道が開かれました。バーゼルでの生活が始まりましたが、その時点では神さまに触れる機会はなく、日本の大学院に同時に籍を置いていた私は修了するために
救いの証し(水島伊緒)
わたしは、1973年に八王子に生まれました。平均的な家庭でしたが、2歳下の弟がいたので母親は余裕がなく、緊張感のある環境で育ちました。ひとのきもちを読み取るのが下手な上、自信がなく、虚勢を張ったり、ひとを断罪し、人間関係を常にこじらせていました。勉強は好きだったので、親に反対されても大学院に進学しました。 ずっと自分に存在価値が見出せず苦しかったのですが、自分の人生に対しては不思議な感覚をもっていました。 最初の結婚も不測の妊娠によるものだったのですが、デンマークに移住するきっかけも偶然によるものでした。出産を機に研究職から退き、研究活動を恋しく思うばかりに母校の研究室に訪れたところ、研修中のデンマーク人女性に出会い、彼女がわたしをデンマーク工科大学の研究プロジェクトに招聘してくれたのでした。3年契約で終わったら日本に帰るつもりでしたが、デンマーク人と一緒になることになり、永住になって今に至ります。 自分の意志に関係なく人生の転機が起きてばかりだったので、何か大きな力が働いているのではないかと思っていました。 2004年に始まったデンマーク人との
救いの証し(後藤千晶)
私は幼い頃から、父の影響でクラシックギターはじめ、両親の応援のもとギタリストになりたいという夢を持っていました。高校卒業後、留学資金を貯めるために音楽とは全く別の職業に就きました。 仕事を始めて2年半ほどたった時に、異動を命じられました。 勤務形態が変わることでレッスンに通うことが出来なくなる事を知り、同じギタリストの先輩に相談したところ、ストラスブール音楽院の教授である今村泰典先生のマスタークラスを勧められました。留学先が決まっていなかった私は先生のレッスンを受け、ストラスブール音楽院の環境がとても良いことが分かり、留学を決意し会社を辞めました。 留学生活が始まり数ヶ月経った時に、聖書のお話を聴く会へのお誘いを頂きました。西洋音楽を勉強する上で、聖書の知識は必要だと聞いていたので興味もありましたし、友人から「そのあとに、おいしいピザも食べられるよ。」との言葉につられて、参加してみました。 わたしの両親はクリスチャンではありません。親族にも友人にもクリスチャンはいませんでした。ですから、キリストは私にとって随分
証(曽我部実穂)
我が家は母子家庭です。 父は牧師でした。正直、父の記憶はあまりなく、どのように語るべきかわかりません。 ただひとつ言えるのは、父は教会のお金を使ってしまった弱い人だったということです。 日本の田舎町で、2歳から9歳まで教会の子として育ち、周りの子と何か違う自分の環境に不自由さを感じていました。 父の事件発覚後、父は牧師を辞め、家族でその町と教会を離れました。 私は、日曜日に朝寝坊ができ、周りの子と同じ、念願の普通の子の生活を手に入れたようで、嬉しかったです。 でも、そんな嬉しい生活も1ヶ月を過ぎる頃には、違和感に変わりました。 家族の悲鳴が聞こえるようでした。 母は、壊れかけていた家族を立て直し、守って行こうともがいていました。 それとは正反対に、父は家族からも神様からも、自分自身からも逃げ、結局両親は離婚します。 しかし、神様はそんな私たちの元に助け手を与えてくださり、母と私たち兄妹を迎えてくれる教会を与えてくださいました。 その時の私にとって、神様や教会は、母を支えてくれる大切なものであり、父の存在を思い出させる痛みを伴うものでもありました。
個人的に語りかけてくださる神様(今井僚子)
私は叩く楽器、打楽器を専門に演奏する音楽家です。日本とオランダで勉強し、2年前結婚を機にポルトガルに移住しました。今もフリーランスで演奏活動を続けています。今日は私の人生に介入された主キリストを証します。 私は日本では珍しい5代目のクリスチャンホームに生まれ、幼い頃から祈り守られ成長しました。教会付属の保育園に通い、日曜礼拝は勿論、家でも家庭礼拝や人を招いて聖書の学びや交わりが行われていました。 自分の信仰を考えるようになったきっかけは、中学の吹奏楽部で教会学校の為に日曜の部活に遅れて行ったら、先輩から酷く怒られ「宗教に騙されているんじゃないの」と言われたことです。大切にしていることを真正面から否定されたのが衝撃で、それ以来自分が信じている事を人に話すのが怖くなりました。それでも教会は部活がない日に行き、中高科の先生や神学生のサポートもあり、私の罪の為に死んでよみがえられたイエス様が私の救い主であると信じ、高校2年で洗礼を受けました。この頃の罪の認識は、妹や弟をいじめるとか、悪口を言う、嘘をつくといった事でした。 教会で奉仕を始め、順風満帆に見え