救いの証
私がイエス様、神様こそが真の救い主であると信じたのは16歳の高校一年生の冬になります。改めて振り返ると私は今のいままで本当に神様に守られ愛され生きてきた人生だなと思っています。 私の家は両親、兄弟がクリスチャンというわけでもなく、私だけが家族の中でイエス様を信じている身になります。そんな私が教会にいきはじめたのは小学生の頃からで、近所の教会のクリスマス会がきっかけでした。教会は友達がいるから、みんな優しいからという漠然とした理由でまともに話をきくわけでもなくただ教会に通っていました。 中学2.3年生ごろにユースで賛美バンド活動を始めるようになってから、自分にとっての教会というものが変わりはじめました。学校は学校で楽しく生活をしていたのですが、思春期という事もあり、対人関係に悩んでいました。私は昔から人間関係を損得勘定でみる癖があり、だからこそありのまま、素の自分では受け入れられるはずがないと思い込んでおり、いつも人に対して顔色を窺い、変に気を遣っていました。クラスの中でヒエラルキーを勝手な主観で創造し、自分がどの立場にいるのか常に考え行動していま
救いの証(山田桂子)
私の生まれ育った家庭にはクリスチャンが一人もいませんでした。むしろ熱心に毎日朝と晩に仏壇の前に正座をして、お経を唱える祖母と同居し育ちました。 幼稚園はミッションの幼稚園へ通ったのですが、そこでは毎日お祈りの時間があり、「いつも優しい神様、イエス様」と呼びかける先生のお祈りを静かに聞き、皆で最後にアーメンと斉唱するのが好きでした。 小中学校はミッションの学校ではありませんでした。勉強がよくできるクラスメート達に対しての劣等感が私の内に大きく膨れ上がり、学校の成績や、友達関係で悩みが多く、自分にまったく自信がありませんでした。不登校にこそなりませんでしたが、毎朝登校するのが億劫だった時期もありました。毎日の祈りがある生活からは遠ざかっていたのですが、特に辛い時には困った時の神頼み的に「明日は楽しい一日となりますように」と願い事を捧げていて、何か頼れるもの、助けてくれる何かを探していました。 そんな環境から離れたく、高校は私立を選びました。仏教系の学校など候補があった中、知人の勧めが最後の決め手となって選んだ高校は、図らずもミッションスクールでした。
「主のみちびき」受洗から救いの確信をえられるまで(今村葉子)
今日、私は18歳で洗礼を受けてから救いの平安を得るまでの神様と私の関係を紹介させていただきたいと思います。 私は日蓮宗の僧侶の娘である母と、化学者の父の長女として大阪に生まれました。僧侶の娘であった母は、日系アメリカ人宣教師から聖書を教えられ、イエス様を救い主と信じ、私が高校生の時に受洗しました。母の受洗を機に暗かった家庭の雰囲気がとても明るくなりました。それを見て私は、イエス様は本当に母を変えることができる神様なのだと思いました。幼少期に大きな病気を患った私は、学校生活を送ることだけでも大変でした。そんな中で良い成績を取ることや、友達や先生と上手くやって行くことで、人からの良い評価を得ようとしていました。評価を気にしながらも心の深いところでは、自分は罪深い存在なのに生きる意味があるのか?と虚しくて仕方なく、とても苦しみました。母を変えた神様にお願いすれば、私も母のように苦しみから救われ、人生が変わるかもしれない。そう信じ、洗礼を受けました。自分の人生を神様に託す決心をした私ですが、生き辛さが収まることはありませんでした。しかし、神様は私を変える
救いの証し(石松玲子)
私は昭和29年1954年に九州福岡県の片田舎に生まれました。66歳です。村中が浄土宗で、家には黒い顔の後ろに真っ赤な火を背負っている怖い不動明王の像がありました。小学校3年の時に家族5人と不動明王も一緒に東京へ引っ越しました。転校間もなく同級生の誕生日会に誘われそこで小さなカードをもらいました。「門をたたけさらば開かれん」聖書の御言葉とは全く知らず、意味も分からないまま子供心に何故かこの言葉はずっと残り続けました。 学生時代はドストエフスキーに魅せられ何故外国人は最終的には人生を神に問うのだろうか、その神様って一体何なのだろうかと気になっていました。その一方自分はおみくじ、手相,星占いなどに凝りそれらに人生を左右されていました。 そのような青春期でしたがクラシックギターを習っていたある日スペインの作曲家アルベニスの楽譜をもらい感動のあまりスペインへ行ってみようと決心しました。その時スペイン人のカトリックのマドレーに出会い、イエス様のことを知りました。聖家族マリア、ヨセフ、イエス、そしてイエスキリストの十字架の死は歴史上の事実だったと教えていただき