神の絶妙なる愛を知る(竹内章博)
私は、20 代までは日本で普通に働き生活を送ってきましたが、人生の舵を海外に向け、一時期僻地を回る時期もありましたが、行き着いてドイツに渡ってきました。 2年少し経過したころでした。当時勤めていた会社の経営が傾き、職場では強権的な経営者からの圧力と保身に走る同僚たちの背信などで、私は四面楚歌の窮地にありました。ちょうどその頃かつて同僚だったクリスチャンの薦めで、自宅でその方の所属する教会のウェブ礼拝の説教を聴いていました。厳しい重圧と猜疑心で沈む私にとっては、与えられている御言葉の一つ一つが、自分への慰めのように実に心に沁みこんてゆきました。 「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。」詩篇23編 4 節 この聖書の御言葉は暗闇の中の希望の光でした。ここにこそ、閉塞状態からの解放と、偽りのない真理があるのではないかと期待から洗礼を決心しました。 今振り返ると、その時の追い込まれた境遇が受洗の決意を押ししただけで、衝動的に藁をつかみ、自分の罪と向き合う
神の愛と赦し(渥美充代)
私は小さい頃から何不自由なく育ててもらいながらも、両親の愛というものをわからずに生きてきました。 父と母は私のことで毎日のように喧嘩をし、母はその後で私にあたりました。 いつからか私は「私がいるから父と母は喧嘩するのではないか、私さえいなければいいのでは」と考えるように なりました。そして「何をやってもだめな子だ」と母が私を見るように、私も自分自身のことを母と同じように見るよ うになっていき、私のセルフイメージは著しく低下していきました。なんとかして早くこの家から出たいと思うように なり、念願が叶い、大学入学と共に東京へ出ました。母から離れられた解放感は全ての解決であるかのように 思えました。 東京に出てひとりで暮らすようになりましたが、何をしても全く満たされない思いは続きました。そんなある日、大 学の同級生に道でばったり会いました。学生時代は彼女がクリスチャンであると知っていたのであまり彼女に深 入りしないようにと警戒心を持っていました。しかし卒業して一年、なぜか久しぶりに会った彼女と話したくなり彼 女の家に寄ることにしました。音楽大学での勉強
「音楽を第一に」から「神を第一に」(内村まり子)
私が通っていた幼稚園はキリスト教会付属のものでした。私は幼稚園の先生のお話やお祈り、クリスマスのキャンドルサービスや降誕劇などを通して、神様の存在を知り、祈るようになりました。でもイエスキリストと自分の関係はよくわかっていませんでした。 小学生になる頃、両親に頼んでピアノを習わせてもらい、進められるままに音楽高校・大学へと進みました。進路を決めた後はピアノの練習を第一として、自分の全てを注ぐようになりました。次第に自分の世界が狭くなり、人付き合いも悪くなり、自分中心で周囲に無関心な者となっていきました。感性もカラカラに渇いて、心と指が分離してドレミファソすら弾けなくなることもあり、何かすべてが空回りするようになっていきました。 高校時代に今の夫、伸之さんと出会い、大学時代から付き合い始めました。彼を通して音楽以外の世界と価値観を知り、クリスチャンの彼の背後にあるイエスキリストの存在も気になりました。とはいえ、音楽を第一とする私の価値観は変わらずに、日曜日に教会に誘われても家で練習、そんな大学生活が流れてゆきました。卒業試験後に「何のためにピアノを
私を回復された神さま(朴有里)
みなさん、こんにちは。ミラノ賛美教会の朴有里です。 今日は、私の信仰の回復のために神さまがどのように働かれたのか、そして私の中で起こった変化について、みなさんにお話しさせていただきたいと思います。 私は在日韓国人3世として日本で生まれ育ちました。クリスチャンであった祖母の影響で、物心つく前から教会に通い、自然と神さまの存在を信じて幼少時代を過ごしました。中学生になると、周りの勧めもあって洗礼を受けましたが、その後は、教会を離れ、自分の思いのままに学生時代を過ごしました。 在日韓国人として生きていくためには、特に際立った専門性を身につけなければならない、そう考えていた私は、大学在学中に、夜間のファッションデザインの専門学校に通い始め、卒業後、大手アパレル会社に就職しました。念願のデザイナーという仕事でしたが、そこでも私は、自分のスキルをさらに高めたい、という願望が常にあり、勤めて3年半後には、その会社を辞めて、ニットの専門技術を学ぶため、ミラノに留学することを決めました。誰にも見下されることのない理想の生き方を、自分の努力で手に入れようと思っていま
救いの証(鶴田朋之)
こんにちは。ミラノ賛美教会の鶴田朋之と申します。 これは、今から15年ほど前の、私がイエス・キリストを信じた時の証です。キリストに出会う前の私は、イタリアでの勉学も終えて、これからどうしようか、そろそろ日本へ帰るのかな、などと考えながら、特に何をするでもなく、なんとなくのイタリア生活を続けていました。 そうした中で、せっかくこうしてイタリアに住んでいるのだから、イタリアのルーツであるキリスト教のことをきちんと知りたいと考えるようになりました。そのような時、友人の韓国人クリスチャンの結婚式に招待され、そこで内村牧師夫妻や教会のメンバーに出会い、彼らとの交流が始まりました。私はさっそく内村牧師に聖書のことを知りたいと相談し、学びが始まりました。その学びは「受洗前の学び」というもので、恥ずかしい限りですが、私はそこでイエス・キリストが実在した人物だということを初めて知るくらい無知だったわけです。そして、その学びに対する私の姿勢は、あくまでも「イタリアの歴史、哲学を聖書から学ぶ」というものであり、それ以上のものではありませんでした。そのような感じだったの
暗闇からの脱出(竹内純子)
私はフランスのパリでクリスチャンホームに生まれて、生後数か月のときに当時、両親の通っていたフランス人の教会で幼児洗礼を授けられ、ものごころのついた時から神様の存在を信じていました。しかし、幼児洗礼を授けられたからと言って、クリスチャンではないと、成長過程において母から何度も言われていたので、いずれは私自身の意思で信仰告白をする必要があることを理解していました。 高校生のときに幼馴染のAさんが牧師と聖書の学びを始めるけれど、ひとりではこころ細いので、一緒に受けてほしいと頼まれました。学びをひととおり終えたときに、牧師からAさんと、私それぞれに「それでは洗礼を受けますか?」と聞かれ、その招きを断る理由がなかったので、Aさんの洗礼式と共に、私の信仰告白式も呆気なく執り行われることになりました。 自分のルーツであり、住んだことのなかった日本にあこがれを持っていたので、私は高校を卒業して日本の大学に進学を決めました。しかし、日本での生活は想像していたものとまるで異なり、日本語で話しているのに周囲とのコミュニケーションが取れない、理解できない、理解してもらえ