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救いの証し(石松玲子)

私は昭和29年1954年に九州福岡県の片田舎に生まれました。66歳です。村中が浄土宗で、家には黒い顔の後ろに真っ赤な火を背負っている怖い不動明王の像がありました。小学校3年の時に家族5人と不動明王も一緒に東京へ引っ越しました。転校間もなく同級生の誕生日会に誘われそこで小さなカードをもらいました。「門をたたけさらば開かれん」聖書の御言葉とは全く知らず、意味も分からないまま子供心に何故かこの言葉はずっと残り続けました。


学生時代はドストエフスキーに魅せられ何故外国人は最終的には人生を神に問うのだろうか、その神様って一体何なのだろうかと気になっていました。その一方自分はおみくじ、手相,星占いなどに凝りそれらに人生を左右されていました。


そのような青春期でしたがクラシックギターを習っていたある日スペインの作曲家アルベニスの楽譜をもらい感動のあまりスペインへ行ってみようと決心しました。その時スペイン人のカトリックのマドレーに出会い、イエス様のことを知りました。聖家族マリア、ヨセフ、イエス、そしてイエスキリストの十字架の死は歴史上の事実だったと教えていただき、このお方がドフトエフスキーの神様だったのかと分かりました。「スペインではクリスチャンでなければ信用されないので洗礼を受けて行きなさい」と薦められ受洗しました。受洗式ではっきり覚えているのは兎に角ものすごい涙が出て止まらなかったことです。半年後にバルセロナへ来て修道院の学生寮に入り、その後今の主人と出会いました。主人は当時既婚者で別居していましたが、そのことを修道院に知らせるとキリスト教国家のスペインの法律では離婚は許されていませんでしたので、「あなたは地獄に落ちる」と言うシスターたちの言葉を背負って寮をでることになりました。


その日以来教会へは行けなくなり、仕事へどんどん没頭して週末も働きつづけるようになりました。ある日、仕事を立ち上げた日から共に働いてくれていた友人から「あなたはもう友だちではなくなった。仕事だけの関係になってしまった」と言われ、この言葉に胸をつかれ神様のことを思い出しました。そのような時に日本人クリスチャンとの出会いがあり、祈ることを知りました。カトリックでは主の祈りとロザリオの祈りぐらいしか祈らなかったのですが、「祈る」とは命の創造主と今生きておられるイエスキリストを通して自分の言葉で捧げるのだと知りました。そして54歳でプロテスタントのバプテスマをうけました。不十分ながらも生きておられるイエス様を受け入れると全宇宙と命を想像された神は私のかたくなな心を砕いていってくださいました。私の思い煩う心、羨む心、裁く心、自分を哀れむ心、怒りなどの心は神が創造された本当の命には無いのだと知りびっくりしてしまいました。イエス様は私が汚くゆがめてしまったこの命と引き換えに御自分の命を私に与えようと想像を絶する愛を持って十字架で死なれたことを知りました。そして私は復活されたイエス様にいただいた真の永遠の清い命の中で新しく生まれました。こんなちっぽけな私を愛してくださりその愛ゆえにご自身をも与えてくださったイエス様をどうしてこれから信頼せずに生きていくことができるでしょうか。その時私の人生の羅針盤の針がイエス様に向かってピタっと止まりました。おみくじも、占いももう既にゴミとなり、職場では愛の命をもって働かれておられるイエス様を迎える喜びの所となり、主人の大病の最中でもこの私たちのために御自身を与えてくださったイエス様に全てを委ね感謝することができました。 この地上の片隅の8歳の子にみことば「門をたたけさらば開かれん」を播かれまだ本当に神様のことを知らなくてもイエスキリストを信じますと告白させた聖霊を送ってくださり教会からはずされたことも友人の言葉をもって神様を思い出させたことも、主人の大病も神様の愛の命の御技によるものでした。このように備えてくださる神様の愛の命の中で私は育てられています。これからも更にイエス様に信頼し神様の愛の御計画が前進し続けるのを祈り続けたいと思います。アーメン

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